クソみたいな生活になってしまってもやっぱりしあわせかどうかは自分しだい


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昨日嫁がこんなことをつぶやいて涙を流した。

 

「わたしたち、間違っちゃったんだよね・・・。」

 

簡単に言うと事の発端はこうだ。

 

冷蔵庫がぶっ壊れて冷凍庫が機能しなくなったんだけど、新しいのを買うお金がない

 

たったこれだけのことで

私の嫁は人生に絶望し

「海沿いの道を曲がるカーブでこのまま海に突っ込んでしまえば全てが終わるのにと何度も思ったことがある」とまで吐露した。

 

いやいやいや。

 

アナタ、冷凍庫ぶっ壊れたくらいで人生に絶望してたら命いくつあっても足りないよ。

たしかに冷凍技術の恩恵は計り知れないけれども。

それでも自ら命を絶つほどの出来事じゃないよ、冷蔵庫買えないくらいのことは。

 

まあでも

拳銃を打ったら人が死ぬように

人は簡単に死んでしまう。

指1本でトリガーを引くだけ、という行為が

人の命を絶ってしまう。

 

ということから考えると

冷蔵庫がぶっ壊れたから命を絶つ、というのも

あながちつながらなくはないのかもしれない。

 

というようなことを考えながら、

今私と家族が置かれている状況と

今まで私と嫁が歩んできた人生を

ちょっと冷静に、俯瞰で見て

 

ほんとうに今クソみたいな生活なのか?

もしそうなら何か間違っていたのか?

もしそうでもしあわせではないのか?

 

何かを考えてみることにした。

 

本当に個人的な考察なので

おそらくおもしろくもなんともありません。

 

私と嫁の今までの歩み

【むーサイド】

 ・まじめに生きてきた

 ・親や先生や大人の言うことを聞いてきた

 ・いわゆる優等生

 ・運動は苦手で2重跳びもフラフープもできない

 ・中学、高校は水泳部で部長

 ・大学の附属高に進学するも、わざわざ浪人してさらに上の大学へ

 ・自分を変えようとラグビー部に入る

 ・一流大学体育会ブランドで上場企業に就職

 ・営業で全国1位

 ・3年で辞めてNYへ留学

 ・絵を販売する会社に就職、1度目の結婚

 ・商品開発部として2週間で1億7千万売り上げる1冊100万円の本を企画

 ・3年で辞めてイラストレーターに、離婚

 ・絵の会社で知り合った現在の嫁と結婚

 ・男児二人授かる

 ・イラストレーターで13年やるも先が見えなくなり廃業

 ・故郷の東京を捨て、地方都市へ移住

 ・年間休日70日以下のブラック企業で働く、年収250万←いまここ)

 

【嫁サイド】

 ・現在移住してきた地方都市のさらに地方で生まれる

 ・地方暮らし時代は知らない

 ・1浪して慶応大学入学、上京

 ・私が商品開発してた会社で知り合う

 ・絵の会社を辞めてフリーのライターとして活動開始

 ・私と結婚、夫フリーのイラストレーター、嫁フリーのライターの不安定状態

 ・39歳で第1児出産、2年後二人目出産

 ・この間ライターの仕事を休業する

 ・原発の放射線が嫌すぎるのと私のイラストレーターの失敗で故郷へ移住

 ・ライターの仕事を再開

 ・編集、ライターの仕事を在宅でしながら子育て

 

こうして箇条書きにしてみると今までの歩みは決して悪くない。

むしろ二人とも団塊ジュニアのいわゆるロスジェネでありながら

大人たちの価値観を素直に受け入れ

言われるがまま過酷な受験戦争に立ち向かい

しかもそこで勝ち残り

「まじめに」「一生懸命」「努力して」やってきた。

 

それなのに嫁は「間違っていた、死にたい」と涙を流す。

 

ここまででもいったい何が間違っているのか

私にもおぼろげながらわかってきたことがある。

おそらく

「大人に言われた価値観を信じてまじめにやってきたのにそのレールからふいにはずれたこと」に原因の一端があるのではないか。

 

「まじめに」「一生懸命」「努力して」やることを求められていた。

それが嫌で「まじめに」「一生懸命」「努力して」行くことに背を向けたから

今の暮らしがあるんだろう。

 

さらに検証していく。

 

私と嫁の今の状況

 ・築40年くらいのボロ家(賃貸)

 ・世帯年収400万円ほど

 ・夫婦、子供二人、犬一匹の4人と1匹

 ・貯金なし

 ・車1台所有

 

そんなに悪いか・・・?

そんなに悪くないんじゃないだろうか?

 

だがしかし、ここからはやはりそれぞれの価値観が左右してくる。

 

私の同期たちの現在を紹介しよう。

 

 【むーの大学のラグビー部の同級生の勤め先】

 ・JAL(パイロット)

 ・ライオン

 ・NEC

 ・三菱重工

 ・パナソニック

 ・野村証券

 ・博報堂

 ・地方公務員(教員)

 ・イワタニ

 ・伊藤忠商事

 

まあ、ご立派。

 

嫁の同級生は知らない。

博報堂とか伊藤園の御曹司とか衆議院議員とか弁護士とかいろいろいる。

 

ここに紹介した彼らは「いい大学に行っていい会社に勤めろ」という大人の言いつけを素直に守って、もう20年以上も社畜としての人生を粛々と歩み続けている。

 

博報堂の同期は卒業後もずっと付き合いがあり、

現在は部長職。

他のみんなもそれなりの役職につき、それぞれかなり高い収入があることだろう。

 

私が新卒で入った会社の同期もたいしたヤツじゃなかったのに、今では事業部長。

入れてくれよもっかいよ、事業部長のチカラでよ。

 

高校時代の友人はスズキ自動車で年収1000万は余裕であるが、と言っていた。

嫌な感じではなく。

1000万円もらっててもカネはない、と愚痴ってた。うそつくなよ。

うそじゃないんだろうけど。

 

 

確かにこういった「かつては同じ釜のメシを食った」人間たちが

今偉くなって現在の私よりもはるかに高い年収を稼ぎだしているのと比較すると

まあわたくしなんてていたらく、と思わざるを得ない。

ていうか思わない方がどこかおかしい。

 

だからと言って

彼らと比べて悲観的になり「自分は間違った」と思い込んでしまうのは

私は決して同意できない。

 

私には私の価値観があるし、

それは社畜としてずっと働き続けることとはほど遠いからだ。

 

むしろそれとは対極にあり

私は人に雇われて「安定と地位と高収入」とひきかえに

「自分の人生」を会社に引き渡すなんて

まっぴらごめんだからだ。

 

なんかちがうな。

 

彼らはそういう一般論では語れない。

なぜなら私は彼らを知っているからだ。

顔のない誰かではなく、いっしょに泣いたり笑ったりした友人だからだ。

 

彼らは決して安定や地位を求めて会社にしがみついたりしていない。

 

ではなぜ彼らは長く働き続けることができるのか?

 

答えは簡単だ。

 

彼らはそれ以外の価値観を持ってないからだ。

 

私は違った。

 

そうやって大きい会社にこき使われることがいいと思えなかったのだ。

たぶん嫁もそうだろう。

 

いや、嫁はもしかすると違うかもしれない。

この記事を書いていてふと思い至った。

 

嫁は慶應大学という超一流の大学を出た。

 

だが、彼女が新卒で就職した会社を私は知らない

聞いたかもしれないが、知らない会社だった。

 

つまり彼女は慶応卒であるにも関わらず

ロクな会社に就職できなかったのだ。

 

それは私たち「団塊ジュニア」「ロスジェネ」世代だからだろう。

 

私たちが大学に入学する頃に

いわゆるバブルがはじけた。

 

それでもラグビー部の先輩たちは

就活時にはものすごい接待を受けていた。

私は目の前でそういう先輩たちを見てきた。

 

私の就活時にはそういう接待はもう完全になくなっていた。

それでも私自身、就活で苦労した覚えは全くない。

 

前述した通り

同期達はみな誰もが名前を知っている企業に就職していったし

就職できなかった同期はいなかった。

就職しなかったヤツはいたけど。

 

おそらくそれは「体育会ラグビー部パワー」なのだろう。

だから嫁は「慶應卒」であるにも関わらず

就職に関しては立教卒に負けたのだ。

 

嫁は全く語らないが

彼女はここではじめて挫折に近い経験をしたのかもしれない。

 

そして「新卒で一流企業に入れなかったのなら、違う価値観の中で生きていこう」と決めたのかもしれない。

 

しらんけど。

 

まあ全て私の想像でしかないが。

 

そうなるとまた話は違ってくる。

 

私はこの記事の中で

 

「大人の言いつけを素直に守っていい大学に行ったのに、レールを外れて現在底辺」というストーリーを描くつもりだった。

 

しかし、もともと嫁がバブル崩壊後の就職氷河期のあおりをもろに喰らい、そもそも新卒の時にレールに乗り損ねてしまったのなら話は全く別だ。

 

つまり嫁よ、

 

おまえはすでに新卒時に間違ってしまったんだよ

 

ということになる。

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引用:https://matome.naver.jp/odai/2148270108179250201/2148270461080530503

 

 

私の方はと言えば、

まあ新卒の会社も小林製薬というライオンや花王の廉価版みたいな会社なんだけどよ、

同期と並べると恥ずかしいんだけどよ、

まあそっから外れてアメリカ行ったり、絵描きになってみたり

まあ好き勝手なことして生きてきたんですよ。

 

行き当たりばったりで。

 

その時の思いつきで。

 

でね、

10年以上やった絵描きという職業で

思うように稼げなかったわけですよ。

 

自分一人が食っていく分にはまあ問題なかった。

 

子どもが生まれるまでは。

 

子どもが生まれて

嫁の収入がなくなって

一気に4人分おれひとりで稼いで来い、ってなったとき

もう途端にダメになっちゃった。

 

もう10年以上絵描きやったし

こんくらいしか稼げないのなら

これは成功とは言えないな、ってことで

もうすっぱり辞めたんですよ、絵を。描くことを。

 

同時に地方都市へ移住して

持ってるモノほとんど捨てて

友人も両親も捨てて

仕事もないし知り合いも一人もいないとこへ乗り込んできた。

 

まあこのときの絶望感ったらなかった。

 

でも

その絶望感が今の自分を作ってる。

 

もうね、

全部捨ててしまうのもつらかったけどね

何より「絵を描くこと」をやめたのが大きかった。

 

人生でいちばん長く続いた仕事だったんだ。

人生でいちばん楽しい仕事だったんだ。

がんばったよ、自分なりに。

 

「まじめに」「一生懸命」「努力して」やったんだよ、自分なりに。

 

だからね、

もうやりきった。

 

もうやりきったんだ。

 

今の時間は

私に残された余生なんだ。

 

だから

休みが少なくても

給料が少なくても

誰かがお金持ってこないと生きていけないから

お父さんは今日もクソブラック企業に行くのです。

 

でもね

それは息子のためだとか

家族のためだとか

きみたちのために働いてるんだとか

そういうのとはまた違う。

 

なんというか

「役割」を果たそうとしているだけ。

 

 

私はもういつ死んでもいい。

 

それは絵描きをやり始めてしばらくしてからずっと思っていた。

 

もうこのままいつ死んでもいい。

 

我が人生に一片の悔いなし!ですよ。

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引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14146215614

あ、人生じゃなくて「生涯」か。

 

今日は北斗の拳でまとめようか。

 

 

「まじめに」「一生懸命」「努力して」の価値観は本当にあなたの価値観に合っているのか?

私達は幼いころから大人たちに

「まじめに」「一生懸命」「努力して」

やることを求められて生きてきた。

 

「まじめに」「一生懸命」「努力して」も万人が成功するわけじゃない

とも言われた。

 

「努力すること」は絶対であり、前提であり、最低限やるべきことだった。

 

本当にそうだろうか?

努力すれば必ずどうにかなるのだろうか?

 

いや、努力してもどうにもならないことの方が多い 

 

私は今、はっきりとこう言い切れる。

 

努力すればどうにかなる、というのは

みんなが同じ潜在能力を持っている、という前提がある。

 

つまり

努力することによって

まだ眠っているチカラを呼び覚ますことができる、

という信仰だ。

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引用:http://blog.livedoor.jp/kanyamane/archives/39856427.html

 

ふふ、うまくまとまってきたな・・・。

 

 

つまり

私たちは北斗神拳の伝承者でもなんでもないので

努力によって潜在能力を引き出すことはできない。

 

いや、引き出せる潜在能力もあるだろうし

潜在能力を引き出せる人もいるだろう。

 

ただ、

必ずしも潜在能力を引き出せるとは限らないのだ。

 

それなのに

それをあたかも「絶対の方程式」

あるいは「人生の真理」であるかのように子供に言い聞かせるのは間違っている。

 

私はこう思う。

 

「努力してできるようになる」を目指すのではなく

「楽しく生きる」ことを目指すべき、と。

 

 

私は絵描き時代、よく人からこう言われた。

 

「才能があっていいですね」

 

まあ言われてイヤな言葉ではないが

私は言われるたびにこう思ったものである。

 

「才能なんてねえよ、おまえ使ってないだけだろうが」

 

まあなんてイヤな人間でしょう。反吐が出る。

 

でも今ならわかる。

 

こう言ってしまうのは

長く学校教育で染み込ませられた「努力教」に侵されているからに他ならないからだ、と。

 

つまり犠牲者なのである。

 

潜在能力を引き出すための「努力」で補えないような能力は

全て「才能」に置き換えられてしまうのである。

 

絵がうまいのは

「努力」ではとうていたどりつくことができない

「才能」という能力でできているのだ、と。

 

ヘイハニー、それは違うぜ。

 

私の持論はこうです。

 

「絵がうまい」のが才能ではなく

「絵を描くのが好き」なのが才能

 

好きこそものの上手なれ。てなもんで。

 

つまりだね、

「好きだと結果的に他人より多くの時間と労力を使ってしまう」

その結果

「他人より抜きんでることができる」

ということが「才能」だと私は思う。

 

詳しくはこちらに書いてます。

gyakutenn.hatenablog.com

 

 

で、何が言いたいのかというと。

 

「努力して到達する」

を目標にするのではなく

「メシも寝るのも忘れて没頭してしまうほど好きなことを見つける」

さらには

「その好きなことをとにかくやり続ける」

ことの方が大事なのではないか。

 

ハタから見ると

「メシも食わずにろくに寝ないですげー努力してる」

ように見えるけど

本人にすると

「やっべ!またのめりこんでやってしもうた・・・」状態。

 

これってさ

「努力教」の人も価値観ぶっ壊されなくてすんでしあわせ。

「努力してもどうにもならない人」も没頭して楽しくできてしあわせ。

誰も傷つかないと思うんだ。

 

傷つかないっていうか、みんなしあわせ。

 

 

 

つまり

植え付けられた「他人の価値観」ではなく、「好き」という自分の欲望に従って生きろ

ということでだいぶ多くの人が幸せになれるのではないだろうか。

 

 

話が逸れまくったが

私の嫁は「他人の価値観」に引きずられ過ぎている。

 

一流企業は私のしあわせじゃない。

「好き」でもないことをずっとさせられるなら

生きている意味なんてない。

 

もちろん金は欲しい。

うなるほど欲しい。

売るほど欲しい。

 

流れ星を見つけたら間髪入れず

「カネカネカネ!」だ。

 

でもね

自分の時間を売って好きでもないことに人生の大半の時間を費やすのはいやだ。

おれはいやだ。

 

それだったら貧乏のままでいい、とは死んでも言わないけれど

今ある状況で楽しくすればいいじゃん。

 

冷蔵庫ぶっ壊れて

アイス溶けちゃって

食材も冷凍できなくて

なんか食事がみすぼらしくなっても

あとになりゃ絶対笑えるって。

 

てかそれを笑えるような人間になろうよ。

あんときゃやばかったなあ、って。

 

 

そのために私は今日もブログを書く。

 

 

 

 

 

 

 

今日はこちらのブログを読んでこんなこと書いてみました。

自由ネコさんありがとう。

gattolibero.hatenablog.com

 

 

以上。

 

 

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