夏休みの宿題が休日出勤の原因だ
息子たちの夏休みもとうとう終わります。
私は8月30日にやっと宿題に取りかかるタイプでしたが、嫁は何でも早く済ませておかないと落ち着かないタイプなので、子どもたちの宿題もそういうふうに指導しています。
なのでウチの子たちは8月も終わりに近づいてもなんらあわてることはないです。
すごいね。
「夏休みの宿題はいらない」という議論があるようです。
子どもの立場からすると、もうこれは間違いなくいらないのでしょうが、大人になると意見は様々です。
なぜか。
「自分はもうやらなくていい」からでしょう。ズバリ。
加藤浩次の「スッキリ」でこの話題が取り上げられていて、出演者の意見は様々でした。
杉山愛:「いらない」派
日常と違うことをするべき。
その方がいい勉強になる。
本上まなみ:「いる」派
小学生は基礎を学ぶ時。
基礎を固めるために夏休みを使えばいい。
全員一律同じ宿題ではなく、それぞれの苦手を克服できるような宿題がいい。理想論ではあるが。
近藤春菜(角野卓造):「いる」派
中学生の時にノートを一冊渡されて
「何でもいいからこのノート一冊埋めること」
という宿題があった。
楽しかったし、それぞれの個性が出てよかった。
そんな宿題がいい。
加藤浩次:「いらない」派
学校の負担、教師の負担が重すぎる。
夏休みに家で勉強させたいならお父さんお母さんが宿題考えりゃいい。
茂木健一郎は2014年に「夏休みの宿題は全廃すべき」とツイートしています。
休みなんだからぼうっとして休むべき、という意見です。
まあ「ぼうっと休む」というのは子ども、とりわけ小学生には難しいでしょう。
ウチの息子たちも絶えずはしゃいで動き回ってますので、ぼうっとしたり、休んだりするのはむしろ何かの拷問でしょう。
でもまあ、私もおおむね茂木健一郎の意見に賛成です。
夏休みはきっちり休むべきです。
なぜなら私は日本の教育システムを
「社畜製造機」だと思っているからです。
「我慢」を強要して逆らわない人間を作る。
「努力」を崇拝して個人の能力差を無視する。
「集団」を重視して個性を殺す。
そうやってあたかも誰でも努力すれば均一に何でもできるようになるんだ、と思い込ませ、できない人間は、努力が足りないからだ、やる気がないからだ、と断罪する。
こうして企業が、経営者が使いやすい人間を作るためのシステムだと思っています。
同じ人って二人といないです。
誰もがうまくできること、苦手なことを持っています。
誰もが好きなこと、嫌いなことがあります。
努力することは大切なことかもしれません。
でも努力って、
側から見たら努力に見えるけど、当の本人には好きで好きでたまらない、楽しくてしょうがないからやってることかもしれません。
「好きなことが才能」というお話
何が言いたいのかというと
夏休みの宿題も社畜を育てるための戦略だ、ということです。
休みなのに家に持ち帰ってやらせる。
休みってなんでしょう?
休むことが休みです。
休むってことは
いつもやってることをやらないってことです。
いつもやってることを場所を変えてやっているならそれは休んでないです。
休みに宿題をすることを当然のこととしてずっと繰り返し繰り返し刷り込んでいくから、社会人になって仕事しても休日出勤してしまうのです。
「仕事が終わらないんだから仕方ない」
こんなセリフよく聞きませんか?
仕事が終わらないのは自分の能力が足りないせいで、その分は自分の時間を削って努力して我慢してみんなと同じにしなければならない、ということです。
逆です。
「仕事は終わってないけど休みなんだから仕方ない」
これが正しい。
終わらないような量を与える会社。
能力を超えた仕事を与える会社。
そんな仕事こなす必要はないです。
ああ、あのひと今日は休みだから仕方ないよね。
ああ、あの人には荷が重いから仕方ないよね。
こんなふうに受け止められる社会に私はしたい。
そのために夏休みの宿題はなくすべきです。
遊びたければ遊べばいい。
ぼうっと休みたければ休めばいい。
勉強したけりゃすればいい。
そうやっていろんなひとがいて
そのいろんなひとが
いろんな場所で
いろんな能力で
活躍できるような社会がいいです。
いろんな人がいた方が世の中は楽しい。
夏休みの宿題が終わらなかったあなたは、学校に行ってこのブログを読み上げるといいでしょう。
間違いなく説教食らいますが。
おしまい
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