「生きづらさ」という言葉ができて「生きづらさ」は減っていく
あなたは「生きづらさ」という言葉を聞いたことがありますか?
私がこの「生きづらさ」という言葉を知ったのはほんの2年くらい前のことです。
「生きるのがつらい」という言い回しはありましたが、「生きづらさを抱えている」「生きづらさを感じている」という言い方がみられるようになったのはここ数年のことではないかと思っています。
なぜなら私は2年前までこの「生きづらさ」という言葉を聞いたことも目にしたこともなかったからです。
- 「生きづらさ」との出会い
- 「障害」は客観、「生きづらさ」は主観
- 「生きるのがつらい」と「生きづらさ」の違い
- 私が罵倒されまくって誰にも相談できなくてものすごくつらかった時、助けてくれたのは誰か知らない人が書いてくれた文章でした
「生きづらさ」との出会い
2年前、現在このブログでも絶賛ディスり中のブラック企業の前に、私はさらに上を行くブラック企業で働いていました。
そのブラック企業は「店舗デザイン」を手掛けていて、この地方都市の繁華街にオープンする、主にとんがった感じのお店をデザインし、工事を請け負っていました。
人数はたったの3人。
これすげえ似てます
北斗の拳のやられ雑魚キャラにしか見えない頭の悪いバイオレンス社長と、その雑魚キャラをなぜか心酔しきっているアスペの二級建築士、そして元ひきこもりイラストレーターの私という、ある意味最強の布陣でした。どこが?
この雑魚キャラ社長は私の知り合いの知り合いで、イラストレーターだったころFacebook にせっせと絵をアップしていた私にいきなり友達リクエストかけてきて、まったく知りもしないけどいちおう知り合い、みたいなふわっとした関係でした。
この北斗の拳やられ雑魚キャラ社長を以下「ジード」と呼びます。
私が東京からジードの住むこの地方都市に移住してきたことを知ったジードは、知り合い経由で私に声をかけてきました。
「自分の仕事にはむーさんの持っている絵とかデザインのスキルが必要だから、ウチで働いてもらえないか」
私はとりあえず話を聞くためにジードに会うことにしました。
当時私はなかなか地方都市での職探しがうまくいかず、移住してきてから1年経たないうちにすでに3回の転職をしている状態で、しかもその時はハルオサンと同じ飛び込み営業のスペシャリスト養成ブラック企業で絶賛搾取されまくり中だったので、ジードへの期待もかなり高かったのを覚えています。
ハルオサンも働いてた全国にある「増殖型労働マルチブラック企業」
ジードは高校を中退し、単身アメリカに渡り、1年かそこらアメリカで暮らした経験があり、どうみても見た目はアタマの悪い品性のかけらもない粗暴なヤツにしか見えなかったのですが、手がけた店舗はなかなかのモノでした。
ジードの会社を訪れて話をしたとき、ジードはものすごく腰が低く、むーさんなんとか来てもらえないだろうか、とほとんど懇願されたので、私は成果の全く上がらない飛び込み営業の仕事より、少しでも自分の経験になりスキルが蓄積される店舗デザインの世界に飛び込むことにしました。
もうすでに自分語りがだいぶ長くなっているので詳細は省きますが、そこから1週間と経たずにジードは本性を発揮し始めました。
やはり第一印象は全く間違ってなく、ジードは品性のかけらもない粗暴な悪党でした。
そこから私は毎日ジードに怒られ、罵倒されるようになったのです。
転職活動もうまくいかず、飛び込み営業もうまくいかず、毎日ジードに罵倒されるうちに私はこう思うようになりました。
「私はダメな人間なんだ」と。
結論から言うとこれは完全に間違いで、私は特にだめなわけではありませんでした。
ただ、ジードをはじめとする「私とは違う常識を持った世界で生きている人間」たちが私をいいように利用しようとしていたため私に「ダメな人間である」という認識を植え付けようとしていただけだったのです。
私はこの地方都市に移住してこいつらと出会うまではむしろ「できる方の人間」でした。
何をやっても常に「上から数えた方が早い」位置にいました。運動以外は。
運動についても、中学高校と水泳部の部長だったし、大学では体育会のラグビー部だったので、スポーツをしたことがない人も含めた総数で見れば、上から数えた方が早いくらいの位置にはいたと思います。
はっきり言って「生きづらさ」など感じたことは一度もありませんでした。
なんでもやればできる、身につけるまでの時間に差はあるかもしれないが、必ずなんでもできるようになる、少なくとも「上から数えた方が早い」位置には必ず行ける、とずっと思っていました。
ところが、ジードに休みなく罵倒される日々は、私のこの考えをぶち壊してくれました。
長くひきこもって絵を描いているうちに私はすっかりダメな人間になってしまい、40過ぎて何かに挑戦したところで今さら何もできるようにはならない、ということを罵倒や恫喝により毎日刷り込まれたのです。
これはつらかった。
ジードとの日々
そして私はいろいろ調べ始めます。
「自分には何かの障害でもあるんじゃないだろうか?」
「私はココロを病んでしまっているのではないだろうか?」
移住してきたため、ここには私が親しく話せる人間は誰もいません。
そう、私には愚痴をこぼしたり、相談したりする相手すらいなかったのです。
聞いたのはグーグルでした。
そしてグーグルが教えてくれた答えは「大人のADHD」と「生きづらさ」という言葉です。
「障害」は客観、「生きづらさ」は主観
生きづらさを感じるのはどういった場面でしょうか。
他人と自分が違うとき、しかも自分が少数派である時です。
「みんなできるのに自分だけうまくできない」
「みんな笑ってるのに自分は笑えない」
こういう場面に出くわしたとき、人は生きづらさを感じます。
主には「障害」などのハンディキャップを抱えている時にこの場面に出くわしやすいのではないでしょうか。
「目が見えないからまっすぐ歩けない」
「耳が聴こえないからお店で注文ができない」
これらは明らかに「障害」があることによる「他者と違う状態」しかも「少数派である」状態で、「生きづらい」と感じる場面です。
実際私は幼稚園の時にかかったおたふく風邪により、左耳の聴力が全くありません。
左耳がまったく聞こえないのです。これは明らかに障害です。
おたふく風邪は実は恐ろしい病気です
国の聴力障害者の基準は「両耳でどれだけ聴こえるか」なので、障害者認定は受けられませんが、明らかに障害です。みんなと違うし、少数派だし、完全に不便です。
この「障害」は客観的基準に基づいています。
ただ、確かに左耳が聴こえないのは不便ですが、私はあまり不便さを感じていないのです。
なぜなら幼稚園の時から聴こえないので、それがある意味デフォルト状態であり、両耳聞こえたときの体験があまりないからです。
つまり左耳が聴こえないことによる「生きづらさ」はほとんどないのです。
逆に私は「スケジュール管理ができない」「計画が全く立てられない」「先送りする」などの「できないこと」が結構数多くあります。
病院に行って診断を受けたことはありませんが、多くの特徴が「ADHD」に当てはまりますので、自分ではADHDだということにしました。
別にジャンル分けしたりレッテルを貼ることが好きなわけではありません。
単に「自分はADHDである」と決めることにより対処がしやすいからそうしただけです。
つまり「ADHDが持つ弱点にどう対処するのか」のいわば処方箋を得るために便宜上分類しただけのことです。
「ADHD 対策」などとグーグルで検索すれば対処法が調べられるからです。
ほんとにADHDかどうかはどうでもいいです。分類されたってお金もらえるわけでもないし、実質的な利益なんてありませんから。
あなたもADHDかも?生きづらい?
ここでは「私がADHDである」という前提で話を進めます。
ADHDは左耳が聴こえないという「障害」に比べると客観的には取るに足りない単なる「特徴」くらいに過ぎないかもしれません(ADHDでしんどいひとごめんなさい)。
でも私は左耳が聴こえない「障害」よりも、ADHDによる「特徴」があることにより「生きづらさ」を感じているのです。
客観的にわかる「障害」より、主観による「生きづらさ」の方がつらい。
私にとってはこれが事実なのです。
「生きるのがつらい」と「生きづらさ」の違い
「生きづらさ」は新しい言葉です。
言葉って便利です。
私はもう45年も生きてしまいましたが、その昔には「ひきこもり」という言葉も「ニート」という言葉もありませんでした。
「ホームレス」もなかったです。
「ホームレス」は代替の言葉がありましたが、「ひきこもり」や「ニート」はその言葉が生まれたときくらいにできた概念や状況であり、それまでになかったモノを表現するために作られた新しい言葉です。
「生きづらさ」も同じように時代や情況によりつくられた言葉でしょう。
昭和の時代から、というかもっと昔からそうだと思いますが「生きるのがつらい」人はたくさんいたでしょう。
それが「生きづらさ」を抱えている、と表現されるようになったとき、確実に状況は変わりました。
なにが変わったんだろうね?よくわかんねえや。
だいたいこんなに長い文章書いていったい何が書きたかったのか、ご本人様にもよくわかってない。
ただ単に「生きづらさ」って言葉便利だな、と言いたかっただけです。
いつも通りのなげっぱなしジャーマンで申し訳ない。
私が罵倒されまくって誰にも相談できなくてものすごくつらかった時、助けてくれたのは誰か知らない人が書いてくれた文章でした
こうして自分でブログを書くようになって、やれSEOだ、上位表示だ、アドセンスだ、役に立つ情報だ、と毎日意識しながら暮らすようになって、最近気づいたことがあります。
私が「自分はダメ人間だ」と独りで、たった独りで苦しんでいた時、唯一相談できる相手はグーグルだった、ということです。
もちろんグーグルは「検索エンジン」というプラットフォームというか器を提供しているだけで、グーグル自体は何も答えてくれません。
つらい私に解決策を与えてくれたのは、そこにいろんな情報を載せてくれているいろんな人たちです。
私は罵倒されまくる日々を送りながら、はじめは「このままでは確実にうつになる」と思い、なんとか自分のココロのバランスを保つために情報を探し始めました。
そのうち「なぜ今自分は罵倒されまくっているのか」を探すようになり、ついには「ADHDかもしれない」という自分にとっての回答を得るに至りました。
そこには多くの有名無名のユーザーによる情報があり、それにたどり着けたことによって、私がおかしいのではなく、ジードのバイオレンスブラック企業がクソだということに気付き、それならこんな会社は早く辞めるべきだ、という対策を得ることができたのです。
これ、素晴らしいシステムだよね。
昔は新聞やテレビが言ってることが全て正しかった。
いや正しいかどうかは置いといて、誰もが正しいと信じて疑わなかった。
よう、そこのおっさん。
あなたは子供の頃こんな会話しませんでしたか?
Aくん「○○って○○なんだって!知ってた?」
あなた「えー?そんなのウソに決まってんじゃん」
Aくん「だって昨日テレビでやってたもん」
そうこれ。
「テレビでやってた」=「真実」
ね?昔ってさ、昭和ってさ、こうだったでしょ?
「テレビでやってた」は水戸黄門の印籠なみの、完全無欠の正義であり真実でした。
でも今はテレビや新聞やマスコミがウソを平気で吐いていること誰もが知っています。
たしかにネット上にはウソや間違っている情報もたくさん転がっています。
でもどれを信じるかは、どれを採用するかは自分で判断できるのです。
なにこれ?うそくせー、と大多数が思えばその情報は自然に淘汰されていきます。
まあ自然にではなくグーグルによって上位表示されなくなるんですが。
とにかく私は移住してきて誰も相談できない状況で、仕事はうまくいかない、休みもない、40過ぎて体もしんどい、なのに給料は安い、で毎日罵倒されるというまさに八方ふさがり、いつうつになってもおかしくないような情況で、私を救ってくれたのはまさにこういうブログなどで情報発信してくれている人たちがいたからだ、ということです。
今まではっきり言ってブログで金を稼ぐことしか頭にありませんでしたが、私は以前の私のように八方ふさがりで「生きづらさ」を抱えて苦しんでいる人に何かの役に立つためのブログを書いていこうと今、たった今決心しました。思いつきですが。
まあそういうふうにどこかでだれかの役に立てればいいなあ、ということで、本日は締めたいと思います。
おしまい。
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