【悲報】40過ぎて手取り20万はありえなくない? うんこな人生パート1


スポンサードリンク

 
なんのために生きてるのかわからなくなるよ

 

45歳まであと1ヶ月を切ったむーです。オカルト雑誌ではありません。

 

嫁、子供2人、犬がいて手取りで20万円ちょっとのサラリーマンです。

 

え、なんでそんなに給料安いの?

今まで何してたの?

ばかじゃねえの。自分のせいだろ。

 

そうです、そのとおりです。なにも言い返せません。

でもさー、これじゃ暮らせないんだもん。

ちょっと話させてもらうくらいいいではないですか。

 

 

では私の歩んできた道をちょっと紹介します。

 

自慢話なので、むかつく人は飛ばしてください。

 

 

 

落ちると言われた付属校へ合格

高校は2流程度の大学の附属に行きました。

生徒の半分はそのまま附属の大学に行けます。

受験の時担任から言われました。

「たぶん落ちるから他にしたほうがいいよ」

受けるくらいいいじゃん。ほっといてくれよ。

結果、合格しました。

そして最初の定期テスト

40人中16位。ぎりぎりじゃねえじゃん。

3年生の模試では国語で学年1位を取りました。

 

中学からずっとやっていた水泳部に入ります。

中学も高校も部長です。でも泳ぎは決して速くないです。

なんていうの?リーダーシップ?カリスマ性?

押しも押されもせぬ人気者っぷりを遺憾なく発揮して、まあいいや、言っててバカらしくなってきました。

 

そして大学受験。

もうその頃には学年上位は定位置だったので上の大学へ上がるのはやめました。

おまえらみたいなのといっしょにいたんではおれはだめになる。

 

もっともっと早く!もっともっと輝くまで。おれたちは走り続けていかなければ、と当時は思っていたものです。

 

 

一浪して一流大学へ

現役の受験はすべて不合格。

私は団塊ジュニア、第2次ベビーブーム世代なので一浪は当たり前です(言い訳)。

見事一流私立大学へ入学しました。超一流ではありません。そのへん半端です。

2位ではなぜいけないんですか?2位でもないけど。

 

大学では体育会のラグビー部に入りました。まったくの素人です。ばか?

でも4年間やり遂げました。

ここでの経験は後の人格形成というか人生に大きな影響を与えました。

自信を得たのです。

早稲田とか明治とかの身長2m体重100kgとかに次から次へとタックルするという仕事です。

しかも無給です。今考えるとありえません。

そのかわり町を歩いてる誰も怖くなくなりました。

2m100kgに町で出会うことは早々ありませんから。

 

大企業へ就職、営業成績全国1位

そのまま大企業へ就職。圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、

大阪本社のお膝元大阪営業所へ配属。

医療機器営業として京都大学なんかの最先端の病院へ最先端の医療機器を紹介して回る。

そして営業成績全国トップを勝ち取る。すごいでしょ。

 

しかし、扱っていたのはアメリカ企業の商品。

なんとそのアメリカの企業が本国でまさかの事業停止。

日本での総販売代理店だったので突然売るものがなくなり、

そのままやる気もなくなり、未来もなくなり、もともと大阪人も肌に合わなかったので退職を決意。

 

ニューヨークへ留学

会社は辞めましたが、貯金はまあまあありました。

当時の彼女が故郷の静岡で教師をしていたのでとりあえずそこへ転がり込むことに。

私は主夫状態で洗濯をし、掃除をし、食事を作り、彼女の帰りを待つ生活に。

しばらくは楽しげにいたけれど

そろそろ働くかーと思いてきとーに求人雑誌を見ててきとーになんとなく興味のありそうな求人に応募してみようと彼女に相談したところなぜか怒られる。

「そんなてきとうに就職先決めちゃダメ!ダメ!ぜったい」

当時は彼女の主張の意味はまったくわかりませんでした。

思えばやっぱり私はいわゆる一般の考え方ができない人間だったのでしょう。

今でもやっぱり同意はできませんが、正論であることは理解できるようになりました。

 

そして彼女は言い放ちました。

「留学してきなよ」

 

前職でアメリカ企業の商品を売っていたこともあり、当時のアメリカ人の社長とは何度も話す機会があり(なんせトップですから)、京都大学への同行営業などもしていて、自分の英会話能力の低さ、でもなんとかコミュニケーションを取れるほどの受験で培った英語力(なんせ一流大学ですから)を痛感し、英語ができたらなー、という漠然とした希望のようなものは持っていました。

 

それよりも、

えー、せっかくいっしょに暮らせることになったのに離れ離れとか意味わかんないんだけど。という気持ちの方が強かったのですが、とにかく女子の言うことには逆らわないという基本的な私の方針に従うことにしました。

結果たいして深い考えのないまま私の感情はどっかに流され、まあ彼女が言うんならそうしてみようか、というとても軽い気持ちで留学を決めました。

 

なんでもそうですがやっぱりやるんならトップで。

 

ということで行先はユナイテッドステーツオブアメリカ、ニューヨークに決定。

どういう基準でニューヨークがトップなの?と言われれば明確な答えは全くありませんが、とにかくニューヨークへ。

 

お金の問題もあり期間はたったの4か月。

ホームステイ先は当時世界最悪の治安、戦場より恐ろしいと言われたブロンクス

なんとコーディネーターがびびって八方手をつくしなんとかブロンクスのホームステイをやめさせようとするくらい。

そんな危なくねえだろう、とたいして気にも留めず過ごしたステイ先は非常に快適でジャマイカ人のホストも非常によくしてくれました。

まず語学学校に通い英語の勉強。まわりは日本人ばかり。しかもあほばかりで日本の大学には入れないからとりあえず親の金でアメリカでも行ってこい、みたいなのばかりでした。

こいつらにはたっぷり時間があります。

1年間日本人と韓国人ばかりの語学学校へ通い、そのあとアメリカの大学をじゅけんしよっかなーどうしよっかなーみたいなの。

やつらは常に日本人とつるみ、3カ月たっても英語レベルはPPAPです。ペンパイナッポーアッポーペンね。

私は最後の1か月リンカーンセンターにインターンシップして働きました。

迎えた4か月目。

みんなに言われました。

「むーがいちばん話せるようになったよね」と。

 

あたりまえじゃ!このカスどもが!いっしょにすんなボケ!

 

傲慢です。

 

 

 長いので続きます。

gyakutenn.hatenablog.com

 

   

スポンサーリンク