何もかもが嫌になってしまった。
もう嫌だ、とにかく逃げたい。
もう消えてしまいたい。全部なくなってしまえばいい。
誰でもこのように思ったことがあるのではないでしょうか。
私は、いわゆる「みんな」が当たり前に従っていることにいつも疑問を感じます。違和感と言うか。
なんかみんな何も考えずにやっちゃってるけど、それって本当にそれでいいの?もっといいやり方があるんじゃないの?そもそもそれってやる必要あるの?など、「ただ従う」ということができないのです。
これはなかなかめんどくさい。
しのごの言わずにやればいいんだ、そんなつまんないこと考えているヒマがあったら手を動かせ、と言われることも多いです。
たしかにその通りです。
でも思っちゃったんだからしょうがない。
「思う」とか「感じる」というのは止めることができません。
「熱い」「痛い」「悲しい」などのように自分の内側から湧き上がってくるものだからです。
思うこと、感じることを「ムダだ」と言い切ってしまうことは恐ろしいことです。
感情を持たず、言われたことをこなせばいい、というのが仕事(特にサラリーマン)に求められることならば、そしておそらく最も人数の多い職業がサラリーマンであるならば、それはある意味「社会の同意」であり、つまり「みんなが当たり前にやっていること」になります。
私は今、この「みんなの当たり前」にものすごく生きづらさを感じています。
こんなのみんなできるよ
みんなそれは違うって言うと思うよ
みんなそんなことしないよ
私はこういった言葉を投げつけられるたびに「え?そうなの?」ってなることが多いです。
尾崎豊はこう歌います。
ああ教えてくれ
おれのどこに間違いがあるのか
街の冷たい風から逃れて
生きてきただけなのに
私はこの場所でいつも泣きます。
いつもこんな気持ちです。
昨日久しぶりにこの歌を聴いて泣きました。
いったいおれの何が間違ってるの?
おまえらそんなに正しいの?
「みんな」がやっているから大切なことなの?
私の主張としては
「そんなの誰も教えてくれなかった」
「調べてみたけどそんなことどこにも書いてない」
ということなのですが、
どうもそういった「みんな」が当然だと思っていることは教えられたり調べたりすることではなく、生きてたら自然にわかるらしいです。
どうも私は自然にわかるはずのことを自然にわかっていないようです。
自然にわかるはずのことを自然にわかってないのはだいぶ致命的です。
多数決の理論で「少数派のおまえの主張は間違っている」ということらしいです。
でもまあ、今はただ「私はみんなの当たり前を知らない状態だ」ということを知っただけでもよしとすることにしました。
民主主義は多数決なので、この「みんなと違う」ことはものすごく生きづらいです。
ただ私は今までわざわざ「みんな」と違うようになれるよう生きてきました。私は私であるよう心がけてきたわけです。
「みんなと同じ」っていちばんイヤです。
みんな違ってみんないい、と言った人もいます。
みんなって誰?
みんなさん、ご連絡お待ちしております。
私にみんなのこといろいろ教えてください。
もうしんどい。
おしまい
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